読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を観ました

 去る11月25日、世は給料日×華金のコンボで大賑わいであろうこの日に、レイトショーで『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅(以下”ファンタビ”と略)』を観た。当日の昼頃にオンラインで席を購入したときは半分くらい埋まっていたのだが(しかもそのうち5割以上が2席ずつ取られているようだったので、さぞカップルが多いのだろうと閉口していた)、いざ劇場に向かうと8~9割は埋まっていたように思った。

 そもそも私は基本的に映画館で映画を観ない。友人に付き合ってと言われることがままあり、そんな時には仕方なく重い腰を上げはするが、大きなスクリーンで観る必要性をあまり感じないからだ。安い人間なので、後から動画配信やレンタルなどで観ても満足してしまう。そんな私にも映画館に(複数回)鑑賞に行く例外的作品というものがあって、それがハリー・ポッターシリーズと名探偵コナンシリーズだ。『ファンタビ』はご存知の通りハリポタのスピンオフということで(実はあまり気が進まなかったけれど)、特に予定もなかったしレイトショーなら安いし、という理由で観てみることにした。

 

この先割と普通にネタバレっぽい話をしますので、検索等でたどり着いた方がいらっしゃいましたらご注意くださいね。

 

  『ファンタビ』は『幻の動物とその生息地』(既刊)の著者であるニュート・スキャマンダーが主人公である。ハリポタのスピンオフという位置づけだが、時間軸でいうと『ファンタビ』はハリーたちの時代より70年ほど遡る計算だ。舞台は20世紀初頭のNY。ここに、トランクの中に魔法動物を隠し持ったニュートが入国してくるところから物語は始まる。

 

 魔法使い断絶を高らかに謳う新セーレム救世軍(カルトっぽい)が街中で演説している場面、終末思想真っ只中という感じがしてものすごく興奮した。この救世軍、おそらくニューイングランドで実際に起こったセイレム魔女裁判が名前の由来になっているんだろう。救世軍がビラを配ることと引き換えに貧しい子供達に施しを与えているのなんかは、オリバー・ツイストに出てくる救貧院を彷彿とさせる。

 その救世軍のリーダー、メアリーにはチャスティティ、クリーデンス、モデスティの3人の養子がいて、その3人を連れていつも宣教に勤しんでいる。彼らの名前はそれぞれ清純、信用、謙虚という意味に訳されるけど、これが実に面白い命名だなぁと思った。学生時代レジュメの隅っこに書いてあったことの受け売りだけど、イギリス文学における命名には結構意味があって、例えばいい人属性のモブキャラにはMr.Goodman、お金持ちキャラにはMr.Richmanみたいに名前でその人となりを表すように名付けることがあるんだそうで。特にクリーデンスは物語のキーマンなのでモブキャラの命名法は当てはまらないと思うけど、とかくこんなにもわかりやすい名前の登場人物が出てくるのは非常に興味深かったのです。おそらく救世軍に入れられるときに後付けされた名前なんでしょうが。

 その演説に胡散臭そうに耳を傾ける群衆に紛れてしまったニュートが「貴方はSeekerなの?」と問われ、「僕はChaserです」と答えるやりとりがあったけど、あれにはどんな含みがあったのだろう。なんとなくコンテクスト以外の意味がありそうに思えたけど。ちょっと抜けたニュートのことだから「クィディッチの話?」とか捉えていることもありえそう。

 

 ニュートは不注意で魔法動物をトランクから逃してしまい、捕まえようとあれこれしているうちにノー・マジの世界をひっちゃかめっちゃかにしちゃう。いろいろと運が悪く、またMACUSAのティナに見つかったことで尋問にかけられ、死刑を言い渡されてしまう。彼のトランクを押収したMACUSAは、トランクの中に"オブスキュラス"が閉じ込められているのを発見。ますますニュートへの疑念を強めることに。

 この"オブスキュラス"は直訳すると曖昧なもの、実態のないものと言った意味になるかな。幼い子供が自らの魔力を制御できず、爆発させてしまうものなんだそう。私の解釈では、負の性質を帯びた魔力の爆発のみ"オブスキュラス"と呼ぶんだろうと思った。幼い頃に魔力を制御出来ない現象自体はたぶんそんなに珍しいことじゃない気がする。賢者の石で動物園に行ったハリーがガラスを消してヘビを逃してしまったのとか、アズカバンでマージおばさんを風船のごとく膨らまして空高く飛ばしてしまったのも、無意識のうちに魔力を解放してしまっているという点では同じだとはいえないだろうか?

 これも私の解釈だが、そういうわけで学校に入るときに魔法使いたちは皆魔法の杖を買うんじゃなかろうか。杖によって魔法使いたちは自分の持つ魔力をより効果的に行使できるようになるし、意識的に杖を持ったときに魔法を使うことで、魔力をある程度コントロールする訓練になるのではないかと思う。もちろん杖がなくても彼らは魔法を行使できるけれど、目的や意思に沿った魔法の使い時を学ぶことも、ホグワーツをはじめとする魔法学校の重要な役割なのだろうと改めて考えた。

 

 クリーデンスが与えられるネックレスが死の秘宝のマークだったり、レストレンジ家の人間が出てきたりとハリポタファンがちょっと胸がざわっとするようなエッセンスが散りばめられていて、とっても楽しい2時間だった。あとラスボスが別人の皮を被ってのうのうと主人公の側にいたっていうのもハリポタ一作目との共通点よね。音楽がヘドウィグのテーマに似てるようで似てない、絶妙なラインで外していくのもなんかムズムズしてしまった。きっと見逃してるシーンも多々あると思うし、レイトショーだったのでパンフレットが買えなかったから、また近々観に行くつもりだ。